私と日本

私と日本の縁は、様々な道を歩むことで結んできたものだ。それは二度と巡り合うことのできない風景が満ちている道であり、私の成長の道でもある。

 「出る月を待つべし、散る花を追うことなかれ」と中根東里は嘗てそう言った。「済んだことは終わらせて、新たな出來事に向かい合おう」と教えてくれたのだが、世間を渡ることもまた同じだろう。歩んできた道を、間違っていても遠回りだったとしても、既に過去の事にすればいい。これからすべきことは、唯々勇気をもって突き進むことだけだ。

 このような気持ちで、三年前に私は日本語を學ぶ道に入った。日本語や日本文化を學ぶ道に踏み込んで以來、毎日「日本」に向き合って過ごしてきた。日本への先入観を持っている人々から、微妙な表情で見られることも少なくない。しかし、それに対して「私は間違った道を選んだのだろうか」というような疑いを持ったこともなく、ひたすらこの道を楽しんで歩んでいる。

日本語を勉強する中で、私は新しい道を見つけた。それは居合道だ。一人で行う武道修業と言ってもいい。刀を使って冷靜に速やかに敵を切り倒すような様は一見怖そうに思われるが、実際に打ち勝ちたいのは「もう一人の自分」だ。つまり、居合道は悩んだり迷ったりしている、精神的に弱い自分との戦いだ。三年以上も居合の道を辿ることで、日本のことがたくさん分かるようになってきた。禮儀や言葉の勉強などはもちろん、最も面白く思うのは、日本人は本當に「道」という言葉が好きなことだ。蕓術なら茶道、華道、書道、武術なら剣道、柔道、弓道。難しくて深そうだが、學ぶ人は大勢いる。その理由を考えれば、おそらくすべての「道」は、あくまでも「內なる自分と付き合う道」なのではないか。難しいのは、ある種の技術を學び盡くすことではなく、善悪問わずに內なる自分の存在を認めることだと思う。言わば自己認識、自己研鑽のようなものだろう。それはまさに勇気を求める道だ。一つの道を辿ることで自分自身を改善して向上させようとする日本人の賢明さには、感心を覚えずにはいられない。

 居合道という道を見つけたことで、私はますます日本に近づいたような気がした。そして交換留學をきっかけに、私は実際に日本の「道」を歩くことができた。海外では何でも一人でやらなければならないので、きつくて寂しい道だと思っていた。ただ、考え直してみれば、朋も一緒だろう。混んでいる電車に乗って自分の目的地だけを目指している朋、疲れた體で家路を急ぐ朋、大學寮でパソコンと向き合う朋。朋だけに限らず、何らかの目的で自分の道をまい進する人が至って多いように感じられる。私の眼には、これは東京の日常だ。何かを目指して大人しく自分の道をまい進する姿が、やはり「日本人らしい」というように感じている。このような「一人の道」はきつくて寂しいからこそ、自分の精神を磨き上げていて、「一人前になる道」でもあると考えずにはいられない。

あちらこちらへと行くうちに私は、いつの間にか神社につながる道を知った。真夏日に石清水八幡宮の鎮座する男山へ登った時には、山が高いせいか、暑くて倒れそうになったこともある。周りに登山客もいなければ、山小屋もない。青々と茂った木陰に座った私は、自然の懐に抱かれて、卻って普段にない落ち著きを取り戻した。時に吹き抜けるそよ風や鳥の囀りは、清冽な水のように私の乾いた不安な心に沁みくる。辿りづらくても心を癒せる「自然の道」だ。一人で何時間も鈍行列車に乗っても、重いリュックサックを一日中背負っても、お腹が空いて食事処が見つからなくても、あまり疲れた感じがしない。それは、まさに「雨風も紅葉も月雪も何れも神の姿なりけり」というように、美しい景色も厳しい狀況も、すべてが神さまから頂いたものだと思えば、疲れも日ごろの煩悩も飛んでいき、心が清くなることであろう。

 中國では古くから「萬巻の書を読み、萬里の道を行く」と伝わっている。學問をする人にとって、大事なことは書籍を読むことだけでなく、色々な道を歩むことで様々な人生體験をしたり、人格を磨いたりすることも必要な修行だという。世にはまっすぐな道が少ない、まっすぐな心を持つことも難しい。しかし、「大変に逢うては歓喜踴躍して勇み進む」と山本常朝が述べたように、逆境を糧に変えさせすればこそ、人生の道が開くと私は信じている。

日本の様々な「道」が私に教えてくれたのは、人生の道でもある。

 

 

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